不定期更新 テストやばいひと

こんにちは。時の流れというのは早いもので、定期更新も最初の一周が終わってしまいました。

二週目の更新は8/6からの予定なので、このままでは投稿が二週間開いてしまいますね。そこで私が間をつなぐためにちょっとした与太話を用意しました。

坂口安吾の『堕落論』という作品があります。実はこの作品は、私が浪人時代に非常に感銘を受けたものでして、少しばかり影響を受けては痛々しい言動を繰り返していたという恥ずかしい過去があるのですが、しかし、話の本題は私の過去の曝露ではありません。この作品は、日本人が一度は読むべきものだと思うのです。

「堕落」とはいったい何を表す言葉でしょうか?堕落という言葉はもともと日本の語彙ではなく、海外から輸入されてきた概念です。キリスト教においては、最初の人間(AdamとEva)が三位一体、創造主である神(Yahweh)に背き、原罪を持ち、死ぬ者となったことを人間の堕落と呼びます。また仏教では、人間が釈尊の教えを忘れていくことを、堕落と見做すそうです。

もちろん聖書の教義と仏教の解釈が同じ言語であるはずは無く、それぞれ違った言葉で記述されたはずですが、たぶん明治くらいの段階でえらく頭のいい人がこのような概念に「堕落」の二文字を当てたのでしょう。

ここから解釈すれば、堕落という言葉の日本人的解釈は即ち、「倫理的敗北」であると言えます。絶対的規範、規律、美徳を失った愚かな人間ということですね。

では、安吾は堕落をどのように説いたのでしょうか。

彼は堕落を「倫理的敗北」ではなく、人間の本性を開放するものと捉えました。彼は、戦時中の日本の軍国主義や伝統的な美徳を「偽りの理想」と批判し、むしろ人間が堕落することによって偽善を脱し、本来の自分に立ち返ることができると述べます。例えば、愛や美徳も、外面的な形式にこだわると嘘に満ちたものになります。しかし、泥臭くとも、欲望や欠点に正直に生きる人間の姿こそが「真実」であり、それを受け入れることで新しい人生が始まると安吾は考えました。

思えば社会は嘘ばかりです。学校教育では"道徳"を"教育"し、入学試験では嘘まみれの志望理由書につらつらと筆を走らせ、バイト面接で猫を被り、就職活動ではありもしない"素晴らしい"人格を練り上げます。これらは全て嘘、欺瞞であると同時に「美徳」なのです。

もっとわかりやすい例を示します。エスカレーターを使わずに階段を上っている人は、"いい人"な気がしませんか?インスタント料理よりも時間をかけた料理のほうが"素晴らしい"ように思いませんか?これが「偽りの理想」です。非常に日本人的な感覚ではないでしょうか。堕落とはこのような偽善を否定し、善く"人間"として生きることを意味します。

美徳とはある種の自己演出や他者意識によって成立しています。その背景にあるのは、努力は美しい、楽をするのは悪いことだ、といった道徳的ヒロイズムです。しかし、それに基づく行動は自分にとって自然でしょうか?それとも、他人から評価されたいという欲求の表れでしょうか?私が問いたいのは、形式や結果ではなく、それが自分の真実から生まれた行動か否か、です。

他人が善く評価をするから自分は善いのだと考えることは、"生きている"とは言えない状態です。人はみな偽りの美徳、欺瞞から堕落し、自由と生を謳歌するべきなのではないでしょうか。

これ全部読む人多分いないですね。定期更新再開は8/6です。

東北大学学友会陸上競技部フィールドパート's Ownd

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